文学尊し。本を読もう。
こんばんは! mypcを手に入れたので、初めてpcでブログを書いてます、成重です。
一人で優越感。沢山の方に相談してこだわって決めたpcだからすご愛着わいてる。大事にします!!
さてさて! 今日も奥がふかーーい文学について書いていきたいと思います。
先週はクローン人間の是非についてゼミ生同士で意見交流して、その意見を主体的賛成、主体的反対、客観的賛成、客観的反対の4つに分けました。
私は、基本的には反対なのですが賛成意見も作りました。
自分の意見を強力なものにするためには反対の意見も必要っていうしね
わたしは以下の意見を出しました。
(主観的賛成)
・クローン人間が自分の代わりをやってくれると便利で都合がいい
・自分の分身であるクローン人間は自分のパートナーになるかも?
(主観的反対)
・人がクローン人間に面倒なことを頼みすぎるとクローン人間は嫌な気持ちになってしまうかもしれない
・クローン人間が行ったこと(させたこと)に対する責任は誰がとるのか?
〈客観的反対〉
・クローン人間の人権が侵害されるかもしれない。
主観的意見が多め。感情的になりやすい性格と関係があるのかなあ。
前のブログでも言ったけど、クローン人間を作ったら自分が楽できるメリットはあるけど、その裏にはリスクが沢山潜んでいるから誰かが嫌な気持ちになる可能性があるなら大人しく自分のことは自分でやった方がいいんじゃないかなって思ったわけです。
ペアになったゼミ生の意見は
(客観的反対)
・クローン人間と人間の間に上下関係が発生する
・小説の怪物のようにクローン人間が世間に認められずひねくれて、不幸が起こるかも
・クローン人間がモノとしてみられる可能性
(主観的反対)
・クローン人間との親族関係が複雑になり、責任が誰にあるのか、問題になる
(私の意見との違い:クローン人間と人間を親子、家族と捉えていた)
・倫理的に許せない
でした。
文学の1回目の授業で、小説フランケンシュタインにおけるヴィクターと怪物の関係は創造主と被創造主
親と子
神と人間
と考えることができるとあったけど、私の意見は創造主と被創造主の関係で考えていて、ペアの子は親子として考えているんだなと思った。
そんなことを考えていると、クローン人間と創った人をを親子と考えると、もしクローン人間が恋して結婚したいと思う相手に出逢ったとしたら、クローン人間は自分を創った人間に、~さんとの結婚を許してください!って言うのかなあとか想像が膨らんできた。
私は似たような意見をまとめてしまいがちだからアイデアが膨らまなかったりするのかなあ。
土曜日のゼミでやったマインドマップ。たくさん書いてる人のマインドマップにあーー分かるよ、考えたよ、と思うことが書いてあったけど、自分のマインドマップには書いてなかったりして。似たような意見でも掘り下げて考えてみると違う角度の意見がうまれたり、アイデアの幅が広がったりするから、あまりまとめすぎないようにしよっと。
そしてもう一つののお題。
自己肯定感はどうしたら実感できるか
ここではみんなの意見を出しながら書いていきます。
興味深かったのは
自己肯定感は自分の中にあるものだから自分次第で得られるものだ!
という人と、
他者(外部)からの影響で得られるものだ!
という人が半々くらいに分かれたこと!
私の前回のブログで書いた意見も見返すと、自分で自らの努力や結果をほめることで得られる自己肯定感と、他者から自分の存在を認められること、自分の存在に感謝されることで得られる自己肯定感を書いてた。
他者からほめられても必ずしも自己肯定感を得られるわけではなくて、褒められて自分がどう思うか次第だから、結局自分次第なんだっていう意見があったけど、それは確かにと思った。なにかに対してすごいね、偉いねと言われても「いや全然まだまだやん」って思うこともあるし。
でも個人的な意見としては、褒められることと認められることは違って、認められることは結果というか、自分の考えに左右されない他者の評価というか、、、。
褒められることは認められることより距離がある。嫌な言い方をすればお世辞も言えちゃう。~できてすごいよね(知らんけど)みたいな、他人事感?
なんかめっちゃ性格悪いな、、
全部が全部じゃないけど!!!もちろん素直に嬉しいこともあるけど!!(必死)
バイトで「成重がいてくれてよかった~助かった」「おるときとおらんときの安定感違うよね」とか言われたら素直に自分の存在を認められたことが伝わります。
ずーっとそばで応援してきた彼氏彼女や親友から「○○が支えてくれたから最後まで頑張れた」って言われたら自分の存在意義を見出せる気がします。
石川先生が
自己肯定感を高めてくれるのは最も近い存在である彼氏や彼女、配偶者で、
極論自分を認めてほしいから付き合うんです
と仰っていて、あーーもうそう、そういうことだよなと納得してしまいました。
一年前に取っていた哲学の授業で、自分のかたわれを探していて、付き合うと承認を求めるようになる、というのがあってつながった気がしました。
で、もうひとつ。
自分次第っていうのも難しい気がする。
正解とかはないんだろうけど、
自分で自分をほめるって簡単に言うけど実際はそんな簡単ではない気がするなあ
逆にそれができたら自己肯定感について悩むことも少なそう。
性格の問題?
例えば、沢山勉強して試験に臨んだけど結果がでなかったとき、初めはみんな悲しむかもしれないけど、悲しみのあとの考え方は
まあでもあんなに努力できた自分は偉いし、無駄ではなかった、自分よく頑張った!
と思える人や、
結果がすべてやん、なんでじぶんは、、
と励まされても聞く耳を持たずに落ち込む人がいます。
自己肯定感が低い人はどうしたら自己肯定感を得られるんだろう。
何度も言うけど、自己肯定感の感じ方って人それぞれで、正解はないんだろうなと思う。
いろんな自己肯定感の得方が知れてこうやっていろいろ考えるのが面白かった!
自分はこういうことに自己肯定感を感じやすいんだなというのが分かったし、人それぞれ自己肯定感の感じ方は違うことが分かったから、これが「自己」っていうものなんだって思った!みんなこう考えるやろって思ってたけど案外そうでもない。これまで自分主体で生きていたことに気づかされた感じ。
自分だったら基準は自分でしかないからみんなこう考えるやろと思ってしまう(何なら一人なら疑問すら沸いていないかも)けど、聞いてみるとそんな考え方もあるんだってなって、一つの話題で無数の考えがあるのを実感して、自分のなかの固定概念をほぐしてもっといろんな考えを知りたい!ってなる。
ゼミで教養を学び始めてからこのループ起きてる気がするな。
先生方ありがとうございます、みんなありがとう。
はて、文学の話だったはずが?え、文学奥深すぎ。
自分主体の考えになってしまうのって本読んでないからじゃない?
もったいないことしてきたな、もっといろんな人の考えに触れよう!
今回は月曜日から書いてたのに心の言語化難しくてもう木曜日だ~皆さんまた明日
おしまい。