教養祭り第3弾 〜文学〜
こんにちは!遂に、パソコンをポチりました成重です。
今日は教養祭り第3弾ということで、石川先生から文学について教えて頂くことになりましたのでそちらについて書いていきたいと思います。
まず、文学とは何か?
文学って聞くと堅苦しいイメージがあって、高校の文学の用語は覚えるの嫌いだったし、お母さんから散々本読めって言われてたけど読まずにここまで過ごして来ちゃったなあ、、。遠い存在、、、。
でも実は文学ってそんな堅苦しいものではなく、小説だけではなく、マンガやドラマ、映画、音楽なども文学のひとつらしいです!
定義を説明すると、文学とはフィクション・ノンフィクション問わず、自分ではない誰かになりきることが可能なエンターテイメントの一種。確かにドラマや映画もストーリーに入り込んで登場人物になりきってしまう。
共通点は言葉なんです。
そんな文学の目的は
様々な作品を通して「人間とは何か」を学ぶこと。
ドラマや映画、音楽から人間とは何か学ぶ意識を持てたらまた違う見方ができて面白そうだなあ!
就活の時の自己分析も文学役に立ちそうな気もするなあ。
そんなこんなで今回はフランケンシュタイン
を読みました。
フランケンシュタインって言われると、
これが浮かびません?
(ちなみに私ははじめ歴史上の人物と思ってましたすみません。)
私もフランケンシュタインってググったらこの写真が出てきて、知らないのになんか見たことある写真で、あーこの人ね!ってなって読み始めました。
でも実はこの人フランケンシュタインじゃないんです。
この人は物語では怪物と呼ばれていて、研究者であるヴィクター・フランケンシュタインによって作られた人造人間なんです。
みんなの認識と実際がこんなにも違う物語なかなかない、面白い!と思って石川先生はフランケンシュタインで卒論を書いたそうです、凄い。
フランケンシュタインを読んでの感想はざっくりいうと
怪物がかわいそう!
ヴィクター自己中かよ責任とれよ!
作らなければ誰も傷つくことなかったのに、、
人間は見た目で判断しがち
でした。
みんなの意見もうんうんそうよねって感じだった。
石川先生曰く、はじめて読んだ時は怪物可哀想の気持ちになるらしい。
これには仕組みがあって、
物語の構成が
こんな風に入れ子構造になっています。
中心に怪物の話があるので、読者は怪物に感情移入しやすいのです、!
まんまと怪物寄りの感情になったわ、、。
でも、2、3回繰り返し読むことで他の登場人物の気持ちが分かったり違う見方が出来てくるらしいです、奥が深い。
さて課題に移ります!
1.人間(クローン人間)を作り出すことの是非
結論からいうと、反対です!
最初は自分の代わりになる人間が現れたら、やらなきゃいけないことを分担して出来ていいな、1人欲しいなって思ったけど、、。
やっぱりよくよく考えたらいろいろ支障が出てくると思う。
例えば、自分で課題やるのが面倒でもう全部クローン人間に頼んじゃえ!ってなって全部頼んだら、多分クローン人間は「何でもかんでも人任せにすんなようざ!」ってなると思う。
クローン人間に感情や意志が生まれたら、怪物みたいに悲しみや怒りを持つようになって爆発してしまうかもしれない。
それに、扱いが大変そう。自分と自分の代わりがいて、周りには一人として思われていたら、友達と分身が知ってることの話になった時に自分は知らない、ってなりそうだし、あとで情報共有するとしても実体験と聞いて得た体験は理解が全然違うと思う。
就活の面接も分身に任せたとして。
うまくいっても自分は何もしてないから自分の実力じゃない気がして劣等感感じると思うし、罪悪感もあるだろうし、
逆にうまくいかなかった場合、自分が任せたのに分身のせいにしてしまいそうだし、本当にちゃんとやってくれた?自分で行った方が良かったんじゃないか、、といった不信感が出てしまいそう。
どちらになっても責任について問題が出てきそうだなと思う。
自分でやることで良いも悪いも全部自分に責任がのしかかるわけで。それって大変だけど自分次第でどうにでもなるから裏には安心があったり、自由があったりする気がする。代わりの存在が出てきてしまうことでそれが崩壊してしまう気がする。うまく説明できないけど、、。
良い面だけを見てたら便利な気もするけど、そんなリスクがあるなら作らない方がいいと思いました。
2.自己肯定感はどうすれば(どのように)実感できるのか
まず自己肯定感について改めて調べてみると
自らのあり方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情
と書いてありました。
他のゼミ生も言ってたけど、自己肯定感実感したわ〜自己肯定感高まったわ〜とか思うことはないとは思うんだけど、
まあまず頑張った時は達成感があると思うし、素直に自分を褒めると思う。
部活で部長として皆をまとめあげて自分自身もこれ以上できないってくらい率先して稽古して引退した時は、その時は必死で分からなかったけど自分よく頑張ったな、良い経験だったなと思えて、その時は自分という存在に価値を抱けてたのかなと思う。
他には自分以外の誰かに感謝されたり、褒められたりすると、自分の存在を肯定されてることと同じだから役に立って良かったなーて思えると思う。
誰かの頑張れる理由になれたら、すっごく嬉しいし、そばにいて良いんだなって思うけど、逆にそばにいてもそんなに支えてあげられなくて邪魔になってるなって自分で感じたり、その人に言われたりしたら凄く悲しいし、自分の存在価値も暗く考えて、はぁ。何もしてあげられないしいる意味ないやんって自己嫌悪に陥ってしまう。
自分を必要としてくれる人がいることって分かりやすく自己肯定感を実感できるなって、最近の体験から思いました。
こんな感じでいいのかな。
皆の考え聞くの楽しみ!おしまい!